主観と客観を常に意識しないと論理的文章にならならい
ネットでつぎのような文章を見かけました。
1.「スマホを渡しておけばスマホで勝手に遊んでくれるから、家事で忙しいとき、つい子ども(幼児)にスマホを渡してしまう」という親がいます。2.スマホは「歴史が浅いもの」なので、スマホが子どもの成長(脳)にどのような影響を与えるのか、長期的な視野にたった研究がなく、その影響がわかりません。3.だから、スマホを子どもに渡さないようにすることが大切です。
ストレートに書くと、これは論理的文章ではない、欠陥のある文章といえます。なぜ、そう言えるのでしょうか。
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「客観的な事実から導き出せるもの」と「主観」を混同
文章中にある1〜3を主観と客観に分けてみましょう。
・主観とは「自分が〜と思う」。
※他人が書いた文章の場合、「書き手が〜と思う」
・客観とは主観以外。
1はスマホを子どもに渡す親がいるという事例。導入。「書き手が〜と思う」ではないので、客観。
2はスマホが子どもの成長(脳)に与える影響はわからないという事実。「書き手が〜と思う」ではないので、客観。
3はスマホを子どもに渡さないようにすることが大切という書き手の意見。「書き手が〜と思う」なので、(書き手の)主観。
さて、ここで2に着目してみてください。
「スマホが子どもに与える影響がわからない」という客観的な事実から導き出せるものは、「スマホがいいのか、悪いのかさえもわからない」ですよね。
だから、本来はつぎのようにしなければなりません。
1.スマホを子どもに渡す親がいるという事例。
2.スマホが子どもの成長(脳)に与える影響はわからないという事実。
3.だから、スマホが子どもの成長(脳)に与える影響もわからない
4.しかし、私はスマホを子どもに渡さないようにすることが大切だと思う。
これを文章にすると以下です。
「スマホを渡しておけばスマホで勝手に遊んでくれるから、家事で忙しいとき、つい子ども(幼児)にスマホを渡してしまう」という親がいます。スマホは「歴史が浅いもの」なので、スマホが子どもの成長(脳)にどのような影響を与えるのか、長期的な視野にたった研究がなく、その影響がわかないため、スマホを子どもに渡していいのか、渡すとダメなのかわかりません。しかし、私はスマホを子どもに渡さないようにすることが大切だと考えています。
なぜ、書き手はこのようなミスをおかしたのでしょうか。
おそらく「客観的な事実から導き出せるもの」と「主観」を混同してしまったためだと思います(詳しい思考パターンの推測は割愛します)。
要は論理構築が苦手なのでしょう。
「主観と客観を常に意識する」
これができれば、この書き手のようなミスはおかさないと思います。